top of page

良識課金制度・後編

10月11日
読了時間: 28分
良識課金制度

良識課金制度・後編 正しい人々

一 普通の速さ

 日曜日、直人は歩行に関する説明を読んで過ごした。

 著しく遅い歩行とは、何キロ以下なのか。

 急ぎ足とは、何歩以上なのか。

 分かりやすい数字があると思っていた。

 説明には、周辺の歩行速度、混雑の程度、通路の幅、後続者の進路変更などを総合的に評価すると書かれていた。

 よくある質問の欄には、同じ疑問が載っていた。

〈どの程度の速さで歩けばよいですか〉

〈周囲の状況に応じ、円滑な通行にご協力ください〉

 直人は二度読んだ。

 知りたいことは、そこから先だった。

 相談窓口へ電話をかけると、混み合っているという音声が流れた。通話を切り、文字で相談できる画面を開いた。

〈足がつって、一時的にゆっくり歩いた場合はどうなりますか〉

〈身体上の事情については、該当する証明書類をご提出いただくことで、個別の配慮審査を申請できます〉

〈一時的な場合です〉

〈通知を受けた場合は、通知画面から申し立てが可能です〉

 直人はスマートフォンを机に置いた。

 まだ何もしていないのに、言い訳を考えている。

 そう思うと腹が立った。

 だが、何に腹を立てていいのかは、はっきりしなかった。


     *


 月曜日、直人はいつもより五分早く家を出た。

 速く歩かなくても済むようにするためだった。

 前を歩く人の背中を見ながら、距離を一定に保った。

 その人が少し遅くなると、自分も遅くなった。遅すぎるかもしれないと思って追い抜こうとすると、向こうから来る人との間が狭くなった。

 直人は追い抜くのをやめた。

 普段は何も考えずに通っていた道なのに、両足の置き場所を意識していた。

 角のコンビニエンスストアの前で、灰色の上着の男を見かけた。

 たばこは持っていなかった。

 スマートフォンを片手に、建物の脇へ身体を寄せている。

 男が顔を上げた。

 一瞬目が合い、直人は視線を外した。

 以前のような満足感はなかった。

 駅前の横断歩道で、信号が点滅し始めた。

 直人は止まった。

 後ろから来た男が駆け抜けていった。渡り終えた先でポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出した。

 男は画面を見て、顔をしかめた。

 直人は自分のスマートフォンを確認した。

 何も来ていなかった。

 それで少し安心したことに、あとから気づいた。


     *


 電車では、座らなかった。

 追加項目には、居眠りによって隣席の人へ接触する行為も含まれていた。

 昨日あまり眠れなかったので、座れば眠ってしまうかもしれない。

 吊革を握り、両足で身体を支えた。

 隣の男が咳払いをした。

 直人はその顔を見た。

 男も直人を見た。

 迷惑だと言うつもりはなかった。通知されるのだろうかと思っただけだった。

 男は口元を手で覆い、窓へ顔を向けた。

 会社に着くころには、もう疲れていた。

 小野に挨拶をすると、彼女は机の上のスマートフォンを見てから顔を上げた。

「おはようございます」

 直人も、同じくらいの声で返した。

 会社は制度への協力事業所に登録していた。来客のある場所と共用部から段階的に対象にするという話だったが、先週、総務から執務室の設備更新についても案内が来ていた。

 通路や休憩室には、既に新しい機器がついていた。

「昨日、挨拶のことで通知が来た人がいたそうです」

 小野が言った。

「挨拶?」

「小さくて聞こえなかったとか。無視したと判定されたみたいです」

「それは、さすがに」

 直人は天井を見た。

 カメラは入口のほうを向いていた。

「申し立てをしているそうです」

 小野は声を少し上げた。

 直人も頷いた。

 何が聞かれているのか、二人ともよく分かっていなかった。


二 事情を証明する


 小野の父親への通知は、その週の半ばに届いた。

 駅の階段を上がる途中で、足を止めた。

 後続の人が右へ避け、下りてくる人が停止した。

 通行妨害、二千円。

「診断書、取ってあったんじゃないんですか」

 直人が聞くと、小野は頷いた。

「病院でもらったのはあります。ただ、制度の様式じゃないので」

「出し直すんですか」

「はい。申請して、審査して、それから適用らしいです」

 小野は休暇の申請画面を開いていた。

「今度の木曜、午前中だけ休みます。父の病院についていくので」

「一人では難しいんですか」

「行けますよ。いままでは行ってました」

 小野は画面から顔を上げなかった。

「でも、また通知が来たら困るって」

 直人は、自分が最初に言った言葉を思い出した。

 そういうのは、対象外でしょう。

 何を確かめて、あんなにはっきり答えたのだろう。

「大変ですね」

 そう言うと、小野は「まあ」と答えた。

 それ以上、話は続かなかった。


     *


 木曜日、直人は小野の担当分の電話も受けた。

 ひとつの会社から、請求書が届かないという問い合わせがあった。

 登録された送付先を読み上げると、先方は半年前に移転したと言った。

 住所変更の連絡は届いていなかった。

 直人はそう説明しかけて、やめた。

「新しいご住所をお伺いしてもよろしいでしょうか」

 相手は住所を伝えたあとで、「前にも言ったはずだけど」と言った。

 直人は謝った。

 電話を切ってから、監視カメラを見た。

 外ではため息にまで値段がつくのに、これは変わらないのだと思った。

 対象になる場所と、ならない場所。

 記録される声と、されない声。

 制度は、世の中のすべてを同じように見ているわけではなかった。

 午後、小野が出社した。

 髪が少し乱れていた。

「間に合いました」

「申請、できました?」

「できました。結果は来週だそうです」

 小野は鞄から書類を取り出した。

「診断書が五千五百円で、父が、二千円払ったほうが安かったって」

「でも、次からは」

「そうですね」

 小野は書類をクリアファイルへ入れた。

「次からは、安心して出かけられるといいんですけど」

 直人は、その言葉の終わり方が気になった。

 出かけられるようになる、とは言わなかった。


     *


 週末、マンションの掲示板に新しい紙が貼られた。

《共用部分の安全確保のため、行動評価設備の導入を検討しています》

 直人は読み終えてから、駐輪場を見た。

 角部屋の自転車は、相変わらず通路へ出ていた。

 設備がつけば片づくのだろう。

 それは、やはり助かる。

 階段から郡司が降りてきた。左手に折り畳んだ紙、右手にごみ袋を持っていた。

「それ、アンケートですか」

 直人が聞くと、郡司は紙を広げた。

「説明会があるそうですよ」

 区の会館で、制度の運用について意見を聞くという。

「行くんですか」

「聞いておきたいことがありましてね」

 郡司はごみ袋を持ち直した。

「公園の掃除をしていると、通路にしゃがむでしょう。あれは、どうしたらいいのかと思って」

「掃除なら、問題ないんじゃないですか」

 言ってから、直人は口を閉じた。

 郡司は気づかずに頷いた。

「そうだといいんですが、分からない人もいるようで。先週は三人しか来なかったものですから」

 ごみが減ったのなら、掃除する人も少なくて済む。

 直人はそう思ったが、言わなかった。

 郡司の持っている袋の中に、濡れた落ち葉が見えた。


三 正しくなるための説明会


 直人は、日曜日の説明会へ行った。

 制度に反対するためではなかった。

 何をすればよくて、何をすると通知されるのか。それが分かれば、以前のように安心して暮らせると思った。

 会場には八十人ほどいた。

 前方にスクリーンがあり、笑顔の家族と清潔な公園の写真が交互に映されていた。

 郡司は前から三列目にいた。直人を見つけると、隣の席の荷物を下ろした。

「来られたんですね」

「ちょっと、気になったので」

 説明は、違反件数の減少から始まった。

 棒グラフの高さが、月ごとに低くなっていた。

 担当者は、短い期間にこれほどの改善が見られた例はないと話した。

 直人も、それは事実だと思った。

 朝の道は煙くない。電車の中で、他人の動画を聞かされることもなくなった。

 その快適さまで、なかったことにはできない。

 質疑応答になると、前の席の女性が手を挙げた。

「子どもが急に走り出した場合、追いかけるのは急ぎ足になりますか」

「個別の状況に応じて判断されます」

「追いかけていいんでしょうか」

「危険のない行動をお願いいたします」

 女性はマイクを持ったまま、少し待った。

 続きの説明はなかった。

 係員が近づくと、女性はマイクを返した。

 郡司が手を挙げた。

「公園の清掃をしているんですが、通路に落ちているごみを拾うことは、通行妨害になりますか」

「清掃活動をされる場合は、事前登録の利用をご検討ください」

「決まった日ならできると思うんですが、たまたま落ちているものを拾うときは」

「通行への影響が生じないよう、ご配慮いただければと思います」

「拾わないほうがいい場合もある、ということですか」

 担当者は少し間を置いた。

「皆様の善意を妨げる制度ではございません」

 郡司は頷いたが、マイクを返したあとも、紙の余白を見ていた。

 直人は手を挙げなかった。

 質問する前から、どんな返事が来るのか分かる気がした。

 最後に、後ろの席の男が大きな声で言った。

「要するに、常識で判断すればいいんでしょう」

 会場の人が振り返った。

「いちいち細かいことを聞いていたら、何も決まらないじゃないですか。普通に周りを見ていれば済む話だ」

 担当者が微笑んだ。

「皆様に、周囲への意識を高めていただくことが、制度の目的でもあります」

 数人が頷いた。

 直人は、後ろの男の顔を見たかった。

 けれど振り返らなかった。


     *


 会館を出ると、歩道の端に小さな輪ができていた。

 年配の女性が買い物袋を落としたらしく、蜜柑が三つ転がっていた。

 ひとつは直人の靴の近くで止まった。

 直人は屈もうとした。

 その横で、郡司が先に拾った。

 蜜柑を女性に渡し、もうひとつを拾いに行った。

 女性は何度も礼を言った。

 通知音はしなかった。

 直人は、郡司が戻ってくるのを待った。

「大丈夫でしたね」

 そう言うと、郡司は少し不思議そうな顔をした。

「ええ。割れていませんでした」

 蜜柑の話だと分かり、直人は曖昧に笑った。

 会館の前にはカメラがあった。

 自分は、果物が潰れなかったことより、通知されなかったことを先に見ていた。


四 五千円の親切


 雨の金曜日だった。

 残業を終えると、午後九時を過ぎていた。

 小野は一時間前に帰っていた。父親の配慮申請は認められたが、登録された事情が自動で反映されなかった通知が一件あり、訂正の手続きを手伝うのだと言っていた。

 直人は机を片づけ、外へ出た。

 駅までの道を、雨粒が跳ねていた。

 傘を少し傾けただけで、向こうから来た人の傘へぶつかりそうになる。直人は肩をすぼめ、流れに合わせて歩いた。

 電車では座れた。

 向かいに、老人がいた。

 郡司より少し年上に見えた。紺色の薄い上着を着て、濡れた傘を両膝の間に立てていた。

 傘の先端を誰にも向けない、慎重な持ち方だった。

 直人はその手を見ていた。

 指が細かった。

 電車が大きく揺れた。

 傘が倒れた。

 老人が手を伸ばしたところで、もう一度、車体が左右に揺れた。

 身体が座席から滑り、床へ膝をついた。

 小さな、鈍い音がした。

 直人は立ちかけた。

 老人は座席の縁をつかもうとして、手を滑らせた。

 隣に座っていた男が足を引いた。通路に立っていた女性も半歩下がった。

 助ける場所は空いた。

 誰も入らなかった。

 直人は天井を見た。

 カメラの黒い半球があった。

 通路へ出れば、どれだけ幅が残るだろう。

 腕をつかんだら、接触と判定されるだろうか。

 声をかけて、了承を得てからならいいのか。

 老人のスマートフォンが鳴った。

 床に片膝をついたまま、上着のポケットを探った。

「後でいいですよ」

 直人は立った。

 老人の前へ屈み、腕を支えた。

「つかまれますか」

「すみません」

 老人の指が、直人の上着を握った。

 軽かった。

 こんなに軽い身体を起こすために、自分は何を考えていたのだろうと思った。

 座席へ戻るまで、数秒だった。

「どこか痛みますか」

「大丈夫です。すみません」

 直人は傘を拾った。

 濡れた持ち手を袖で拭きかけ、やめた。そのまま向きを変え、老人の手へ渡した。

 自分のスマートフォンが鳴った。

《通路占有 三千円》

《危険姿勢での物品受け渡し 二千円》

 直人は立ったまま画面を見た。

 五千円。

 数字が、知っているものへ置き換わっていった。

 明日の食料品。週末の缶ビール。買い替えるつもりだったシャツ。

 老人が顔を上げた。

「私のせいですか」

「いえ」

「私が、お払いしますから」

「いいです」

 老人は上着の内側へ手を入れた。

「でも」

「いいですから」

 声が強くなった。

 老人の手が止まった。

 直人はスマートフォンを伏せた。

 向かいの窓に、自分の顔が映っていた。

 老人が小さく頭を下げた。

「すみません」

 直人は、今度は何も言えなかった。

 助けたかった。

 助けてよかったと思っていた。

 それなのにいま、自分はこの人を困らせている。


     *


 帰宅すると、上着の袖に老人の指の跡が残っていた。

 布が少し皺になっているだけだった。

 直人はハンガーへ掛け、申し立て画面を開いた。

 添付映像には、通路で屈む自分が映っていた。

 横に、通行可能幅を示す線が重ねられていた。

 老人が転んだ部分は、別の小さな窓で再生された。

〈転倒した方を助けていました。通路にいたのは、そのためです〉

 送信した。

 夕食を温めている間に返答が届いた。

〈ご協力ありがとうございます。行為の目的にかかわらず、周囲に生じた影響を共通基準で評価しております〉

 支払額の変更はないと書かれていた。

 直人は再審査の申請へ進んだ。

〈転倒した方をそのままにしておくべきだったのでしょうか〉

 少し考え、その文章を消した。

 怒っていると思われれば、不利になる気がした。

〈救助行為に該当すると考えます。映像の確認をお願いします〉

 丁寧な言葉に直して送った。

 受付番号が表示された。

 目安は十営業日だった。

 電子レンジが鳴った。

 弁当を取り出すと、端だけ熱く、真ん中はまだ冷たかった。

 直人はそのまま食べた。


五 別の対応


 翌週、小野は話を最後まで聞いた。

 昼休みの公園だった。ベンチには二人分の間隔が描かれ、足元に荷物を置く位置まで示されていた。

「お怪我はなかったんですか」

「僕は、何も」

「その方です」

「たぶん。大丈夫だと言っていました」

 小野は頷いた。

 直人は、なぜかその確認をされるまで、老人の身体のことを考えていなかった。

 この二日間、五千円と、申請画面と、通路の赤い線を何度も思い出していた。

「助けてよかったと思います」

 小野が言った。

「それは、そうなんですけど」

「はい」

「また同じことがあったら、どうしたらいいんでしょうね」

 小野は答えなかった。

 離れたベンチで、子どもが母親の膝へ手を伸ばしていた。母親は子どもの靴を脱がせ、膝の上へ乗せた。

「前に、音漏れの話をしたとき」

 直人は言いかけた。

 小野が顔を向けた。

「あんな言い方をして、すみませんでした」

 小野はしばらく直人を見ていた。

「あのとき、イヤホンを外してたんです」

「え?」

「音漏れに気づいて。片方外して、どれくらい聞こえてるのか確かめようとしてました。その映像を何回も見ました」

 直人は膝の上の弁当を見た。

「周りに気を配ったほうがいいのは、その通りです。でも、気を配ってなかったって決められるのが、少し嫌だったんです」

「はい」

「高瀬さんの映像も、そうなのかなと思って」

 小野はそれ以上言わなかった。

 昼休みの終わりまで、二人は仕事の話をした。

 直人は、許されたのかどうか分からなかった。

 分からないままでも話を続けられたことが、その日は少しありがたかった。


     *


 再審査の回答は、八営業日目に届いた。

 今度は、前より長い文章だった。

 当該人物の転倒は確認された。

 ただし映像からは、直ちに重大な身体的危険が生じていたとは判定できなかった。

 車内には乗務員への連絡設備があり、通行を妨げずに支援を要請する手段が存在した。

 危険姿勢での物品受け渡しについても、車両停車後に行うことが可能だった。

 よって、当初の評価を維持する。

 直人は最後まで読んだ。

 乗務員への連絡設備。

 確かにあった。

 ドアの横に、赤いボタンがついていた。

 あれを押せばよかったのだろうか。

 押して、用件を伝えて、その間は床に膝をついた老人を見ていればよかったのか。

 直人は映像を再生した。

 自分が通路へ出る。

 女性が半歩下がる。

 その女性も迷惑だったのかもしれない。

 助けるにしても、ほかの方法があったのかもしれない。

 そう考えかけて、直人は画面を閉じた。

 自分が何をしようとしているのか分かった。

 納得できる理由を探していた。

 納得すれば、これ以上考えずに済むからだった。


     *


 その夜、制度への意見を投稿できるページを開いた。

 老人を助けた経緯を書いた。

 車内の位置、時間、受けた通知、再審査の返答。できるだけ感情を入れずに説明した。

 投稿すると、まもなく反応がついた。

〈救助まで罰金はおかしい〉

〈自分だったら助けられない〉

 直人は少し息をついた。

 次のコメントを読んだ。

〈本当に緊急性があったのか、これだけでは分からない〉

〈善意なら何をしてもいいわけではない〉

〈車内で素人が勝手に動かすほうが危険な場合もある〉

 直人は映像を投稿しようとして、やめた。

 老人の顔が映っていた。

 ほかの乗客も映っていた。

 顔を隠すには、作業が必要だった。編集すれば、都合のいいところだけ見せていると言われるかもしれなかった。

 画面の下に、新しいコメントが現れた。

〈普通に暮らしていれば払わなくていいのに〉

 直人はその言葉を見つめた。

 返事を書く欄へ指を置いたが、一文字も打たなかった。

 自分も、同じ言葉を押した。

 あのとき、その向こうに誰がいるか考えなかった。

 直人は投稿を削除した。

 削除しますかという確認に、はいと答えた。

 本文が消えると、画面は急に静かになった。


六 九百八十円の道


 三か月目になると、街で立ち止まる人が減った。

 ショーウィンドウを眺める人は、建物に沿って設けられた枠の中へ入った。

 道を調べる人は、待機区域を探した。

 空を見上げながら歩いている人を、直人はほとんど見なくなった。

 駅前の花屋では、外に置いてあった鉢が店内へ移された。花を見ようとして立ち止まる客に、店員が何度も場所を案内しなければならなくなったためだという。

 直人がときどき弁当を食べていた公園には、利用登録を済ませた清掃団体の腕章をつけた人がいた。

 郡司の姿は見なかった。

 マンションの階段で尋ねると、登録の日程が決まっているので、自分は都合のつく日だけ参加すると言った。

「今朝も行こうと思ったんですが、別の日のほうがいいそうで」

 郡司は玄関の脇へ箒を戻した。

「落ち葉は、こちらの都合では落ちませんからね」

 笑っていたので、直人も笑った。

 郡司はそれから、最近はベランダの植木を増やしたのだと話した。


     *


 直人の通知は、その月に四件あった。

 咳。

 歩行速度の変化。

 店の入口付近での停留。

 駅構内での接触。

 最後の接触は、人を避けた先で、別の人の鞄へ肩が触れたものだった。

 謝った。

 相手も、大丈夫ですと言った。

 通知は取り消されなかった。

 直人は家計の表を開いた。

 食費の下に、行動負担金という項目を作った。

 入力してから、その項目名をしばらく見ていた。

 来月も払うつもりなのかと思った。

 だが、項目を消すことはできなかった。

 会社の休憩室でその話をすると、営業の田辺が言った。

「高瀬さん、まだナビ使ってないんですか」

「普通の地図なら」

「違います。良識ナビ」

 田辺はスマートフォンの画面を見せた。

 青い線が、駅から会社まで伸びていた。

 ところどころに緑色の丸があり、止まっていい場所が表示されている。

「混み方とか工事とかも反映されるので、結構便利ですよ。歩くペースが外れると、振動で教えてくれるし」

「いくらですか」

「月に九百八十円」

 五千円より安い。

 直人は、すぐにそう計算した。

「通知、来なくなりました?」

「減りました。保証はしないって書いてありますけど」

 田辺は笑った。

「迷うのが減るだけでも、楽です」

     *

 小野は、既に契約していた。

「父にも入れました。私のほうから道を送れるので」

「使えそうですか」

「本人は、そのほうが安心だって」

 小野はスマートフォンを持ち上げた。

「この前は、病院までいつもの道より二十分長くかかりました。でも、階段は避けられました」

「よかったですね」

「そうですね」

 小野は画面を伏せた。

 直人は、以前より彼女の「そうですね」を慎重に聞くようになっていた。

     *

 直人は、その夜申し込んだ。

 よく行く場所を登録した。

 自宅。会社。駅。スーパー。

 案内に従って歩行の癖を測り、通知の強さを設定した。

 最後に、画面へ言葉が現れた。

《迷わず、正しい行動を。良識ナビ》

 翌朝、出発の通知は七時三十八分に来た。

 直人は靴を履いた。

 案内された道は、いつものコンビニエンスストアを通らなかった。二本先の通りへ出て、歩道の広い道を駅へ向かった。

 画面を見る必要はほとんどなかった。曲がる場所で短く振動し、歩く速さを変える必要があるときは長く振動した。

 直人は肩の力を抜いた。

 何を基準にしたらいいのか、考えなくて済んだ。

 駅へ着くと、到着予測と一分しか違っていなかった。

 会社の机に鞄を置いたとき、今日は通勤が楽だったと思った。

 制度が始まった最初の週と、よく似た気持ちだった。


七 苦情のない職場


 会社の電話が静かになったのは、その翌月だった。

 全通話の冒頭に、応対品質と双方の安全確保のため録音するという案内が入るようになった。

 暴言があった場合には管理者へ自動で通知する。

 直人は、それには賛成だった。

 小野も、長い説教を聞かされる回数が減った。

 朝の会議で、部長が言った。

「お客様からの苦情も減っています。このまま、社内の行動評価も安定させていきましょう」

 スクリーンに、部署ごとの数値が映された。

 対人摩擦。

 通路利用。

 音環境。

 直人の部署には、一件だけ黄色い印がついていた。

 先週、小野が受付で来客に対応したときのものだった。

 予約をしていない訪問者が、営業担当者を呼ぶよう要求した。担当者は外出していたが、訪問者は受付に留まった。

 小野は二度説明し、三度目に少し声が大きくなった。

 訪問者にも、小野にも、通知が出た。

「片方だけを見るのではなく、双方が落ち着いた対応をすることが大切です」

 部長は言った。

 名指しはしなかった。

 だが、何の話なのかは、全員知っていた。

 小野は手元の資料へ何かを書いた。

 直人は、部長の言葉を聞きながら、あの受付で他に何ができたのか考えた。

 呼べない担当者を呼ぶことはできない。

 謝り続けていればよかったのだろうか。

 会議が終わると、部長が直人を呼んだ。

「高瀬君、来月から来客の一次対応を手伝ってもらえるかな」

「小野さんの担当では」

「少し負担を減らしてあげたいのでね」

 部長は声を落とした。

「君は最近、評価が安定しているから」

 直人は返事をするまでに、少し時間がかかった。

「分かりました」

 断る理由はなかった。

 仕事が増えるのだから、得をしたわけではない。

 そう思いながら席へ戻った。

 小野は、既に変更を聞いていた。

「引き継ぎ、午後でいいですか」

「はい」

 小野の机には、受付で使っていたファイルが重ねてあった。

 角が少し丸くなった青いファイルだった。

     *

 数日後、直人のところにも、予約のない訪問者が来た。

 別の人だったが、同じように担当者を呼ぶよう要求した。

 直人は案内画面を開いた。

《不在の場合は、定型文を用いて再訪をご案内ください》

 表示された文章を、そのまま読んだ。

 相手は納得しなかった。

 直人は、画面の次の文章を読んだ。

 訪問者の声が大きくなった。

 スマートフォンが鳴った。

 相手は画面を見ると、口を閉じた。

 直人には通知が来なかった。

 訪問者が帰ったあと、部長から、落ち着いた対応だったと褒められた。

 直人は礼を言った。

 午後、良識ナビから応対履歴の評価が届いた。

《適切な対応が完了しました》

 直人はその画面を、小野へ見せようとしてやめた。

 代わりに、青いファイルを引き出しへしまった。

     *

 その週の帰り、直人は駅の階段で紙袋を落とした。

 スーパーで買った卵の箱が、袋の底へ強く当たった。

 手を伸ばすと、先に別の手が持ち手をつかんだ。

「はい」

 見上げて、直人は一瞬言葉を失った。

 三人組の、リュックを背負っていた男だった。

 今日は一人だった。

「ありがとうございます」

「いえ」

 男は何も覚えていない顔で、階段を上がっていった。

 直人は紙袋を持ち直した。

 卵の箱を確かめると、一つだけひびが入っていた。

 男の背中は、もう見えなかった。

 あの声を忘れたわけではなかった。注意した女性が降りたあと、三人が笑っていたことも覚えている。

 それでも、袋を拾った手は同じ人のものだった。

 直人は礼を言う声が十分な大きさだったか気になり、スマートフォンを出しかけた。

 途中でやめた。

 代わりに、卵の箱を袋の上へ置いた。


八 待っている人


 小野が席を移ったのは、梅雨が明けたころだった。

 来客対応が減ったため、奥の処理担当と配置を揃えることになった。

 直人の隣には、新しく入った社員が座った。

 挨拶の声は明るく、よく通った。

 小野とは、休憩時間が重ならなければ話さなくなった。

 たまに廊下で会うと、父親はどうかと聞いた。

 最近は病院以外にあまり出ないと言っていた。

「膝が悪くなったんですか」

「あまり変わらないです」

「暑いですしね」

「そうですね」

 その返事を聞いて、直人は、また都合のいい答えを置いたのだと思った。

 分かっていても、次の言葉が出てこなかった。

     *

 直人の通知件数は減っていた。

 前の月は一件。

 今月は、まだ一件もない。

 咳が出そうになれば、建物の外へ出る前に水を飲んだ。

 買い物の予定は出発前に決め、店先で迷わないようにした。

 電車では端の席が空いているときだけ座った。

 毎朝同じ時刻に家を出て、同じ道を、案内された速度で歩いた。

 知っている店がひとつ閉まったが、いつ閉まったのかは分からなかった。推奨経路が変わってから、前を通らなくなっていた。

 それでも、生活は整った。

 朝の煙はなくなった。

 割り込まれることもない。

 静かな車内で、直人は天気予報を読めた。

 なぜこんなに疲れるのか、説明しにくかった。


     *


 ある土曜日、母親と電話をしていたとき、直人は久しぶりに大きなくしゃみをした。

「風邪?」

「違う。ほこり」

「掃除してる?」

「してるよ」

 母親が笑った。

 直人も笑った。

 そのあと、二人ともしばらく何も話さなかった。

 電話の向こうで、食器の触れ合う音がした。

「何かあった?」

 母親が聞いた。

「別に」

「そう」

 直人は、老人の話をしようかと思った。

 小野の席の話でも、郡司が掃除へ行かなくなった話でもよかった。

 だが、話し始めるには、ずいぶん前まで戻らなければならなかった。

 最初は本当に助かったのだということも、説明したかった。

 ただ悪い制度だと言えば済む話ではない。

 そんなふうに考えているうちに、母親が近所のスーパーの話を始めた。

 直人は聞いた。

 電話を切ったあと、部屋の中でため息をついた。

 スマートフォンを見た。

 自宅に、一人でいる。

 分かっていても、確認していた。


     *


 翌朝、マンションの入口で郡司に会った。

 手に小さな鉢を持っていた。

「植え替えをしたら、一つ余りましてね。よかったら」

 丸い葉がいくつかついていた。

「僕、枯らすかもしれません」

「水は毎日やらなくていいんです」

 郡司は育て方を説明した。

 直人は鉢を受け取った。

 そこへ、買い物帰りの住人が入ってきた。

 二人は同時に壁へ寄った。

 住人は会釈して通り過ぎた。

 入口の上では、新しく取り付けられたカメラのランプが点いていた。

「長く引き止めてしまって」

 郡司が言った。

「いえ」

 直人は鉢を持ち直した。

 郡司は、もう何か言いたそうにしていた。

 だが、直人が時計を見たので口を閉じた。

 直人は部屋へ戻り、窓際に鉢を置いた。

 土は少し湿っていた。

 もらったことは嬉しかった。

 それなのに、何の予定もない日曜日の朝に、どうして時計を見たのか分からなかった。

九 適切な対応


 月曜日、良識ナビの出発通知は、いつも通り七時三十八分に来た。

 直人は窓際の鉢を見た。

 土は、まだ乾いていなかった。

 水をやらずに家を出た。

 駅までの道は空いていた。

 歩道の端に設けられた待機区域で、スーツ姿の男がスマートフォンを操作していた。灰色の上着を脱いでいたので、一度通り過ぎてから、あの歩きたばこの男だと気づいた。

 もう匂いはしなかった。

 直人は振り返らなかった。

 駅の階段を上がり、定期入れを手に持った。

 鞄は閉じていた。

 改札を抜けたあと、三つ先の柱の脇にある待機区域へ入ってからしまえばいい。

 身体が順番を覚えていた。

 その朝、改札の向こうで、子どもが泣いていた。

 黄色い帽子をかぶっていた。

 五歳くらいだろうか。

 肩から小さな水筒を提げ、行き交う大人の顔を見上げていた。

 そばに保護者らしい人はいなかった。

 直人は足を緩めた。

 泣き声は、大きくなったり小さくなったりしていた。

 誰かの名前を呼んでいるようだったが、人の足音で聞き取れなかった。

 駅員は、近くにいるはずだった。

 子どもに声をかけ、一緒に案内所へ行けばいい。

 それとも自分が駅員を呼んできたほうがいいだろうか。

 その間に、子どもが移動するかもしれない。

 ポケットの中でスマートフォンが震えた。

《立ち止まる際は指定待機区域をご利用ください》

 直人は矢印に従った。

 三つ先の柱の脇だった。

 定期入れを鞄へしまった。

 画面を開き、相談欄に「迷子」と入力した。

《付近に保護者が見当たらない子どもがいますか》

 はい。

《線路、車道等への進入など、差し迫った危険がありますか》

 直人は顔を上げた。

 子どもは改札の向こう側にいた。ホームへ上がる階段までは距離がある。いまは柱の近くに立っている。

 いいえ。

《付近の係員への通報を推奨します》

 通報ボタンが現れた。

 直人は押した。

 位置情報が送信され、緑色のチェックがついた。

《通報を受け付けました》

《適切な対応が完了しました。移動を再開してください》

 直人はもう一度、子どもを見た。

 まだ泣いていた。

 人の流れは途切れなかった。

 白いブラウスの女性が子どもを見て、スマートフォンを確認した。そのあと、少し安心したような顔で歩き始めた。

 別の男も、画面を触っていた。

 通報が重なれば、早く来てもらえるのだろうか。

 それとも、もう誰かが向かっているのだろうか。

 直人は受付済みの表示を開いた。

 係員の到着時刻は書かれていなかった。

 相談欄に戻り、文字を打った。

〈来るまでそばにいたほうがいいですか〉

《安全を確保したうえで、係員の指示に従ってください》

 係員はいなかった。

 直人はスマートフォンから顔を上げた。

 子どもまで、十メートルほどだった。

 そこまで行って、駅の人が来るよと言えばいい。

 それだけならできる。

 老人の指を思い出した。

 上着をつかむ、細い指。

 すみませんと繰り返す声。

 直人はそのとき、本当に助けようとした。

 助けることはできた。

 けれど、あとから見た映像の中では、自分は通路を塞ぐ人だった。

 いま近づけば、子どもが泣きやむとは限らない。

 知らない大人に声をかけられ、怖がるかもしれない。

 駅員へ任せるほうが、いいのかもしれない。

 画面の上部に、待機区域の利用時間が表示された。

 残り二十秒。

 次の電車に乗れば、会社へいつも通りに着く。

 一本遅らせれば、受付の準備が慌ただしくなる。

 誰かに代わってもらわなければならない。

 直人は画面を閉じた。

 通報はした。

 助けを呼んだ。

 自分にできることを、何もしなかったわけではない。

 待機区域を出て、人の流れへ戻った。

 子どもの横を通ったとき、一瞬、目が合った。

 黄色い帽子の下で、口が小さく開いた。

 直人は歩幅を狭めた。

 何か言おうとした。

 声が出る前に、後ろの足音が近づいた。

 直人は前を向いた。

 階段まで歩いた。

 手すりにつかまる人を避け、決められた側を上がった。

 途中で振り返れば、改札が見えるはずだった。

 だが、流れの中で身体をひねることはしなかった。


     *


 電車は、静かだった。

 あの三人組が、隣のドアから乗ってきた。

 女が何か言い、男が口元だけで笑った。

 もう一人は、リュックを前に抱えていた。

 直人は空いた吊革につかまった。

 座席には、以前、割り込みを注意した年配の男がいた。

 同じ人かどうか、少し迷った。

 縁の擦れた革靴と、文庫本の持ち方に見覚えがあった。

 男はページをめくった。

 誰も声を荒らげなかった。

 誰も人を押しのけなかった。

 ドアの上のモニターで、ニュースが始まった。

 マナー違反件数が、過去最低を更新したという。

 駅前で撮影された人々が、制度について答えていた。

 街がきれいになった。

 子どもを連れて歩きやすくなった。

 電車が静かになった。

 どれも、直人が一度は思ったことだった。

 榎本が画面に現れた。

 最初の記者会見と同じように、笑顔で頭を下げた。

「皆様のご協力に感謝いたします。制度は正常に機能しています」

 直人のスマートフォンが短く震えた。

 心臓が一度、強く打った。

 画面を開いた。

《現在の違反件数:〇件》

《本日も良識ある行動をありがとうございます》

 罰金ではなかった。

 直人は息を吐いた。

 吐き終える前に、周りを見た。

 誰もこちらを見ていなかった。


     *


 会社へ着くと、隣の社員が挨拶をした。

 直人は、同じ大きさの声で返した。

 鞄を置き、受付の案内画面を開いた。

 今日の訪問予定は三件だった。

 奥の席で、小野が電話に出た。

「お世話になっております」

 以前と同じ声だった。

 直人はスマートフォンを伏せた。

 数分後、また開いた。

 迷子の通報画面には、受付済みと書かれていた。

 直人は更新した。

 表示は変わらなかった。

 個人情報の保護のため、その後の対応状況を通知しない場合がある。画面の下には、小さくそう書かれていた。

 見つかったのかもしれない。

 保護者が、すぐ近くにいたのかもしれない。

 係員が来て、手を引いていったのかもしれない。

 どれもあり得ることだった。

 直人は行動評価の画面へ戻った。

《現在の違反件数:〇件》

 こちらには、はっきりした答えがあった。

 午前中に二度、昼休みに三度、その画面を開いた。

 弁当を食べ終えたあと、小野が通路を通った。

 直人は声をかけようとした。

 今朝、駅で。

 そこまで頭の中で言い、続きがまとまらなかった。

 迷子がいたので、通報した。

 それだけなら、いいことをした話になる。

 立ち去ったと言えば、なぜ待たなかったのか聞かれるかもしれない。

 小野は責めないかもしれない。

 それでも、もう一度、その場にいた自分のことを考えなければならなくなる。

 小野は隣の社員へ会釈をして、奥の席へ戻った。

 直人はスマートフォンを手に取った。

 朝の通知は、まだそこにあった。

《本日も良識ある行動をありがとうございます》

 直人はその通知を消さなかった。

 仕事の合間にも、帰りの電車でも、何度か開いて読み直した。

 子どもの顔を思い出すたびに。

 
 
bottom of page