良識課金制度・前編
更新日:10月11日

前編 こちらが謝る街
一 七時四十二分の煙
最近、マナーの悪い人が増えた。
高瀬直人は、そう思っていた。
けれど、いつから増えたのかと聞かれると、うまく答えられない。去年より今年が悪いのか、自分が年を取って我慢できなくなっただけなのか。それを確かめる方法も、確かめる気力もなかった。
ただ、毎朝七時四十二分に家を出ると、たいてい同じ男の煙を吸うことになった。
男は灰色の上着を着て、右肩に黒い鞄を掛けていた。駅まで続く細い歩道を、右手にたばこを持って歩く。ときどき口へ運び、それ以外は腕を下ろしている。火のついた先端が、すれ違う人の腰のあたりを前後した。
月曜日、その先端が、母親に手を引かれた子どもの顔の近くを通った。
母親が子どもの腕を引いた。
男は気づかなかった。
あるいは、気づかないことにした。
直人は男から五メートルほど離れて歩いていた。風向きが悪い。吐き出された煙がちょうど顔の高さに流れてきた。
息を止めて追い抜こうとすると、向こうから自転車が来た。歩道の真ん中を走ってくる高校生だった。片手でハンドルを握り、もう片方の手に持ったスマートフォンを見ていた。
直人は塀の側へ寄った。
自転車は速度を落とさずに通過した。
ようやく息を吸うと、まだ煙の匂いがした。
男の肩に手を置き、ここでは吸わないでくださいと言う自分を、直人は一瞬だけ想像した。
相手は謝るだろうか。
すみません、と火を消すだろうか。
それとも振り返って、何か文句があるのかと言うだろうか。
直人は男の背中を見た。自分より背が高い。首が太い。鞄の持ち手には、金属の飾りがいくつもぶら下がっている。
そんなものを観察しなければ一言も言えないことが、嫌だった。
男は角のコンビニエンスストアの前でたばこを地面へ落とし、靴底で二度こすった。ガラスの扉が開き、明るい店内へ消えた。
植え込みの脇に、潰れた吸い殻が残った。
その向こうでは、店員が長い箒を持って、別の吸い殻を集めていた。
*
駅の手前には、パン屋と薬局の間に挟まれた狭い通路がある。
その朝は、前を歩く若い男が、スマートフォンで動画を見ていた。
男の歩幅は一定しなかった。速くなったかと思うと遅くなり、右へ寄って、また中央へ戻る。追い抜こうとするたびに進路が重なった。
直人は腕時計を見た。
あと四分。
一本逃しても遅刻するわけではない。だが、次の電車は乗り換えが悪く、会社まで十二分余計にかかる。
「すみません」
男は反応しなかった。
耳に小さなイヤホンが入っている。
「すみません、通ります」
少し声を大きくすると、男はようやく顔を上げた。直人の顔を見て、半歩だけ横へ動いた。
追い越した背後で、舌打ちが聞こえた。
直人に向けたものか、動画の内容への反応かは分からない。
分からないまま、腹が立った。
駅の入口では、二人連れの女性が案内図の前に立っていた。片方がキャリーケースを横向きに置き、もう片方が両手で地図を広げている。通行人は、その前を斜めに避けて歩いていた。
直人も避けた。
改札では、前の人が入場した直後に立ち止まった。
鞄から何かを探している。
直人は身体をひねり、後ろの人に肩を押されながら横を抜けた。
「すみません」
口から出た言葉に、自分で苛立った。
家を出てから、まだ十五分も経っていなかった。
二 声の大きな三人
ホームには二列の乗車位置が描かれていた。
直人は左の列の最後尾に並んだ。前には、縁の擦れた革靴を履いた年配の男がいた。男は文庫本を両手で持ち、ときどき線路のほうへ目を上げた。
電車が入ってくる直前、紺色のスーツの男が列の横へ立った。
直人はその顔を見た。
男は線路を見ていた。
偶然そこへ立っただけかもしれない。誰かを待っているのかもしれない。そう考えられる位置だった。
けれどドアが開くと、男は降りてくる人の肩の間へ身体をねじ込み、列の先頭より早く乗り込んだ。
降りようとしていた女性が立ち止まった。
男は空いた座席へ向かった。
直人の前の年配の男が、文庫本を閉じた。
「降りる人が先でしょう」
声は大きくなかった。
紺色のスーツが振り返った。
「何ですか」
「降りる人を待ってから乗ってください」
「乗れたんだからいいじゃないですか」
女性は何も言わず、二人の間を抜けてホームへ降りた。
直人も乗った。
年配の男の言っていることは正しい。そう思いながら、直人は反対側のドアへ向かった。二人の近くに立ちたくなかった。
ドアが閉まるころには、紺色のスーツは座席でスマートフォンを開いていた。年配の男はその前に立ち、閉じた本を片手に持っていた。
直人は吊革につかまった。
何もしなかった自分が少し嫌だった。だが、あの場で何か言ってどうなったのかも分からなかった。
それから二駅先で、三人組が乗ってきた。
男が二人、女が一人。いずれも直人とそれほど年齢は違わないように見えた。社員証らしいものを首から下げ、ひとりはコンビニエンスストアのコーヒーを持っていた。
三人は、空間の広さを確かめるようにドアの前へ散らばった。
「で、結局お前が全部やったわけ?」
「そう。あいつマジで何もできない」
「うわ、最悪」
女が笑った。
笑い声が天井にぶつかって戻ってきたように、車内へ広がった。
何が面白いのか、直人には分からなかった。会話の内容より、これだけの人がいる場所で、その全員に聞こえる声を出せることが不思議だった。
コーヒーを持った男が、同僚らしい人物の声色を真似た。
「すみませーん、聞いてませーん」
もう一人が膝を折って笑った。背負ったリュックが、直人の腕にぶつかった。
男は気づかず、もう一度身体を反らした。
直人は吊革を持つ手を替えた。
斜め前の座席では、中学生くらいの女の子が単語帳を開いていた。三人が笑うたび、目が紙から離れる。やがて女の子は単語帳を閉じ、窓のほうへ顔を向けた。
次の停車駅を告げる放送が流れた。
三人の話し声に重なり、駅名が聞き取れなかった。
女がスマートフォンを取り出した。
「これ見て。昨日送ったやつ」
短い音楽が鳴り、甲高い声が続いた。
動画だった。
三人は画面を囲んだ。通路の幅が狭くなり、降りようとした若い母親が、子どもの手を握ったまま足を止めた。
「すみません、降ります」
誰も動かなかった。
「降ります」
二度目で、コーヒーの男が少しだけ身体をひねった。
母親は子どもを先へ通し、自分も続いた。その拍子に鞄が男の腕へ触れた。
「危な」
男は紙カップを持ち上げた。
「すみません」
母親が謝った。
女はスマートフォンから顔を上げず、「混んでるね」と言った。
ドアが閉まった。
直人は、紙カップの白い蓋を見ていた。
どうして、いまの人が謝るのだろう。
どうして、道を塞いでいるほうは、自分のコーヒーの心配だけしていられるのだろう。
車内の端で、さっきの年配の男が顔を上げた。
直人は一瞬、また注意するのではないかと思った。
年配の男は三人を見た。それから、本へ目を落とした。
*
会社の洗面所で、直人は上着の袖を鼻へ近づけた。
煙の匂いがする気がした。
水で濡らした手のひらを袖に当てると、布に黒っぽい跡が広がった。
鏡の中で、自分の眉間に縦の線ができていた。
「高瀬さん、何かこぼしました?」
入口から小野真帆が声をかけた。
「いえ。ちょっと、たばこが」
「吸いましたっけ」
「吸わないです。前を歩いてる人が」
小野は「ああ」と言い、会釈して通り過ぎた。
その短い相槌に、直人は少し救われた。
説明しなくても分かることが、まだある。
三 並んでいる人
直人が勤めているのは、事務機器の保守契約を扱う会社だった。
営業担当者が持ち帰った契約を登録し、請求先を確認し、住所や口座番号の間違いを訂正する。仕事そのものは嫌いではなかった。直すべき場所があり、直せば処理が進む。少なくとも、表計算ソフトは逆上しなかった。
隣の席の小野は、午前中から何度も電話で謝っていた。
「はい。ご不便をおかけしております」
受話器から相手の声が漏れていた。
高瀬には言葉までは聞き取れなかったが、声の調子は分かった。
電話が終わると、小野はモニターの隅に表示された時刻を見た。
「二十四分」
「修理の件ですか」
「紙詰まりです」
「手順、案内できました?」
「できました。九分目くらいに」
小野は受話器のコードを指でほどいた。
「残り十五分は、最近の若い人は話を聞かないというお話でした」
直人は笑いかけて、やめた。
小野も笑わなかった。
*
昼休み、二人は駅前の弁当屋へ出かけた。
店内には六人ほど並んでいた。レジは一台しか開いていない。奥では店員が揚げ物を容器へ詰めていた。
前から二番目の男が、会計を終えてから追加の注文をした。
「あとコロッケ二つ」
「かしこまりました」
「やっぱ三つ。別々に入れて」
店員は一度開いた袋を置き、小さな袋を三枚取り出した。
「あ、それ一つはソースいらない」
男はレジの横の見本を見た。
「これ、さっき買ったやつより安いの?」
「そちらは日替わりのお弁当になります」
「じゃあ、そっちに替えてよ」
小野が小さく息を吐いた。
男は列を見なかった。
直人は、壁に貼られた求人広告を読んだ。時給の数字の下に、笑顔で働ける方歓迎と書かれていた。
自分には無理だと思った。
ようやく順番が近づいたところで、入口から入ってきた男が、直人の前へ身体を入れた。
「予約した坂口だけど」
レジの店員が顔を上げた。
「恐れ入ります、お並びいただけますか」
「予約だよ」
「はい。受け取りのお客様も、こちらの列に——」
「予約の意味ないじゃん」
男はカウンターに指を置いて、二度叩いた。
店員の視線が列へ動いた。
「すみません、すぐにお渡ししますので」
誰に向けた言葉か分からなかった。
直人の前にいた女性が、曖昧に頷いた。
奥から袋が運ばれてきた。
男はそれを受け取り、店を出た。
直人は自分の弁当を買うとき、わざと丁寧に「お願いします」と言った。店員も丁寧に返した。それで何かが埋め合わされたような気になりかけたが、弁当の蓋を開けるころには、そんな気持ちはなくなっていた。
休憩時間は、あと十八分だった。
「結局、ああいう人のほうが早く済むんですよね」
直人が言うと、小野は割り箸を割りながら頷いた。
「待ってもらうより、渡したほうが早いですからね」
「でも、それじゃ、次もやるでしょう」
「やると思います」
「だったら断らないと」
小野は弁当の端の漬物を見た。
「あの店員さんが?」
直人は黙った。
「いや、店員さんが悪いわけじゃなくて」
「分かります」
小野は言った。
「私も、電話、切れませんでしたから」
そのとき直人は、何か答えなければいけないと思った。けれど、小野が求めているのは答えではない気もして、麦茶を飲んだ。
午後一時になると、二人は同時に机へ戻った。
四 何も起きなかった日
直人は四階建ての賃貸マンションの三階に住んでいた。
エレベーターはない。夜になると、一階の自転車置き場から階段までの通路が暗くなる。管理会社には何度も照明の交換を頼んでいたが、対応予定ですというメールが届いたきりだった。
火曜日の帰り、直人はその暗がりで、自転車の前輪に足をぶつけた。
駐輪場の区画からはみ出した自転車だった。
誰のものかは知っている。二階の角部屋に住む男が、いつも階段に近い場所へ置く。管理会社が貼った注意の紙は、数日前から剥がれていた。
直人は自転車を持ち上げ、奥へ押した。
ハンドルが別の自転車の籠に引っかかった。外すために両手を使い、持っていた弁当の袋を地面へ置かなければならなかった。
何をしているんだろうと思った。
疲れて帰ってきて、人の自転車を片づけている。
階段の上から声がした。
「高瀬さん」
三〇二号室の郡司だった。
七十代くらいの男で、白髪をいつも後ろへ撫でつけている。週に何度か、駅前の公園で清掃をしている姿を見かけた。
「それ、重いでしょう」
「大丈夫です」
郡司は降りてきて、直人の弁当の袋を拾った。
直人が自転車を戻す間、何も言わずに持っていた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
郡司は袋を返した。
直人は、どうしてこの人がお礼を言うのだろうと思った。
部屋へ戻ると、上の階から低い音が響いていた。
音楽なのか、ゲームなのか。旋律は聞こえず、一定の間隔で床を叩くような音だけがする。
直人はテレビの音量を二つ上げた。
弁当の漬物が、傾いた容器の中でご飯に混ざっていた。
*
水曜日は雨だった。
駅の階段で、前の男が閉じた傘を横向きに持っていた。腕が動くたびに、尖った先端が直人の腹へ向いた。
距離を取ると、後ろから人が詰めてきた。
ホームでは、濡れた傘を空いた座席へ置いている人がいた。
車内では、入口に立った若者が大きなリュックを背負ったまま動かなかった。降りる人がいるたびに腰を少しひねり、通り抜ける人の服に濡れた布を押しつけた。
直人はその日の帰り、ドラッグストアへ寄った。
レジで、初老の男が店員を叱っていた。
「だから、昨日はこの値段だったんだよ」
「申し訳ございません。特売は昨日までとなっておりまして」
「昨日買おうと思って来られなかったんだから、同じだろ」
男の後ろには、買い物籠を持った人が四人いた。
店員は、胸に研修中の札をつけた若い女性だった。
「責任者の方に確認いたします」
「最初からそうしろよ」
直人は買おうとしていた歯磨き粉を棚へ戻した。
残りは、まだ少しある。
明日でいい。
店を出ると、雨は止んでいた。
傘を開いたまま、入口の前で電話をしている男がいた。直人はその横を通った。
帰宅して、歯磨き粉のチューブを両手で絞った。
小さな塊が、ようやく出てきた。
*
木曜日の夜、母親から電話があった。
「元気にしてる?」
「普通」
「仕事、忙しいの」
「まあまあ」
母親は、近所の家が建て替えになることと、飼っていた猫がいなくなった家のことを話した。直人は弁当の容器を洗いながら聞いていた。
「そっちは、何かあった?」
直人は蛇口を閉めた。
煙。舌打ち。紙カップ。レジを叩く指。濡れたリュック。
ひとつずつ話しても、仕方がないと思った。
聞かされたほうは困るだろう。そんな人は昔からいると言われるかもしれない。気にしすぎだと言われるかもしれない。
「別に。何もないよ」
電話を切ってから、直人は少しの間、流し台の前に立っていた。
何も起きていない。
怪我をしたわけではない。財布を盗まれたわけでも、会社を辞めさせられたわけでもない。
今日一日を説明するなら、確かに何も起きていなかった。
それなのに、朝家を出たときより、何かが少なくなっていた。
五 言った人
金曜日、直人はいつもより二十分遅い電車に乗った。
取引先から届いた訂正を片づけていたためだった。車内は朝ほど混んでいなかったが、座席は埋まっていた。
隣のドアから、聞き覚えのある笑い声がした。
三人組だった。
今日はコーヒーではなく、銀色の缶を持っている。
「まだ八時じゃん」
「もう一軒行けるって」
「明日休みなんだからいいでしょ」
声が朝より大きかった。
女が誰かに電話をかけた。スピーカーに切り替え、三人で相手の声を聞いている。
「いまどこ?」
電話の向こうから聞き取れない返事があり、三人が笑った。
座席にいたスーツ姿の女性が顔を上げた。
「すみません」
女は電話を耳へ近づけた。
「ちょっと待って」
それから、座席の女性を見た。
「少し、声を落としてもらえますか」
女性は言った。
直人は吊革を握り直した。
言ってくれた。
最初に感じたのは、安堵だった。
「え、そんなうるさい?」
女が男二人を見た。
「普通じゃない?」
缶を持った男が言った。
「電車の中なので」
「知ってますけど」
もう一人が答えた。
笑ったのは、その男だけだった。
女性は鞄の持ち手を揃えた。
「電話も、控えていただけると」
「もう切りました」
女が画面を見せるように持ち上げた。
「これでいいですか」
女性は小さく頷き、視線を落とした。
数秒、静かになった。
そのあと、男が言った。
「最近、いろんな人いるよな」
さっきより少し小さな声だった。だが、聞かせたい相手には届く声だった。
「疲れてるんじゃない」
「こっちも疲れてるけど」
女が笑った。
直人は、座席の女性を見ないようにした。
見れば、何かしなければならない気がした。
次の駅で女性は降りた。
そこが目的の駅だったのか、直人には分からない。
空いた席には、缶を持った男が座った。
「ラッキー」
直人はその言葉を聞きながら、女性と一緒に降りればよかったと思った。降りて、あなたは間違っていなかったと言えばよかった。
そんなことを知らない人から言われても困るだろうか。
困るかもしれない。
ドアが閉まった。
直人は、もう何もしなくていい理由を見つけた自分に気づいた。
*
その夜、管理会社からメールが届いていた。
騒音の件につきまして、全戸へ注意喚起文書を配布いたしました。
上の階では、相変わらず低い音が鳴っていた。
直人はスマートフォンで、電車内の騒音について検索した。
同じような体験談がいくつも出てきた。注意して怒鳴られた人。動画を撮られた人。駅員を呼んだが、駅員が来るころには相手が降りていた人。
コメントには、注意の仕方が悪かったのではないかという意見もあった。
直人は画面を閉じた。
間違っていると伝えるために、相手の機嫌を見て、声の大きさを調整し、逃げ道を確保しなければならない。
それでも、伝えたほうが悪くなることがある。
だったら、誰が言えばいいのだろう。
上の階で、何かが床へ落ちた。
直人はテレビをつけた。
六 値段のついた迷惑
ニュース番組では、駅の監視カメラの映像が流れていた。
ドアの前に立つ人を、青い四角が囲んでいる。別の四角が、降りようとする乗客を追った。画面の隅に数字が現れ、二つの四角の間に赤い線が引かれた。
《公共行動適正化法、成立》
直人はリモコンを置いた。
公共空間で生じる継続的な迷惑行為について、街頭カメラと交通機関の設備を利用し、人工知能が検知する。
本人確認には行政サービスの登録情報を用いる。
認定された行為に対して負担金を課し、行政サービスと連携した口座から自動で徴収する。
画面の下に、大きな文字が出た。
《良識課金制度、来月一日より全国施行》
法案については、以前にもニュースで見た気がした。監視やプライバシーという言葉が並んでいて、そのときは自分に関係があるとは思わなかった。
いまは、青い四角の中の男から目を離せなかった。
電車のドアを塞ぐ行為、三千円。
歩きたばこ、三千円。
ポイ捨て、五千円。
ながらスマホ、二千円。
列の割り込み、四千円。
直人は、朝の男の右手を思い出した。
レジを叩いた指を思い出した。
あの三人には、いくらつくのだろうと思った。
記者会見の映像に切り替わった。
生活環境庁の制度推進室長、榎本という男が、白い机の前に座っていた。
「これまで、地域の方々や現場の従業員の皆様に、注意する負担をお任せしてきました」
榎本は、手元の原稿から顔を上げた。
「本制度は、その負担を社会全体で引き受けるものです」
直人はテレビへ身体を向けた。
「注意した人が危険にさらされる。配慮した人だけが時間を失う。そうした状況を、個人の忍耐で解決する時代は終わらせなければなりません」
上の階から、また低い音がした。
「やっとか」
直人は声に出した。
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。
*
翌朝、小野は制度の話を知っていた。
「昨日、母から電話が来ました。近所の公園のごみが減るかもって」
「いいことですよね」
「減るなら、いいと思います」
小野は資料を揃えながら言った。
「高瀬さん、対象一覧、最後まで読みました?」
「だいたいは」
「歩行妨害のところ。やむを得ない事情については別途審査って、あれ、先に分かるんですかね」
「何がですか」
「うちの父、膝が悪いので。階段の途中で止まることがあるんです」
直人は少し考えた。
「そういうのは、対象外でしょう」
「だったらいいんですけど」
「普通に暮らしていれば大丈夫なんじゃないですか。わざと迷惑をかけてる人のための制度でしょうし」
小野は資料の角を机で叩いて揃えた。
「そうですね」
そこで話は終わった。
直人は自分のモニターを見た。
十分な答えだったと思った。
昼休みには、制度についての記事を読んだ。コメント欄には、賛成意見が並んでいた。
〈普通に暮らしていれば払わなくていい〉
〈注意した人が損する社会はもう終わり〉
〈嫌なら迷惑をかけなければいいだけ〉
直人は三つとも賛同ボタンを押した。
次の記事には、収入によって負担の重さが異なることへの懸念が書かれていた。
直人は途中まで読み、やめた。
自分だって、余裕があるわけではない。
それでも、列には並んでいる。
*
施行までの二週間、駅の景色は少しずつ変わった。
改札の上に細長い機器が取り付けられた。ホームの柱に、カメラの更新工事を知らせる紙が貼られた。
床には、通行の流れを示す矢印が増えた。
街頭では、行政サービスの登録を確認するよう案内していた。スマートフォンを持たない人には、通知用の端末や郵送で対応するという。
直人は口座の連携を済ませた。
同意事項は長かった。上から下まで一度スクロールし、確認したという欄に印をつけた。
画面に緑色のチェックが現れた。
《準備が完了しました》
それだけで、少し正しいことをした気になった。
施行前の日曜日、マンションの前で郡司に会った。
郡司は、掲示板に貼られた制度の案内を読んでいた。
「ずいぶん細かいんですね」
「でも、これくらいやらないと変わらないんでしょうね」
直人は自転車置き場を見た。
角部屋の男の自転車は、今日も半分通路へ出ていた。
「ああいうのも、早く何とかしてほしいです」
郡司は同じ方向を見た。
「あれは邪魔ですね」
「何回言われても、直さないんですから」
「そうですね」
郡司は掲示板へ目を戻した。
「うちの家内は、歩くのが遅かったんです」
突然話が変わり、直人は郡司を見た。
「後ろに人がいると気にするものだから、私が先に行って、端に寄れるところを探したりして」
郡司は、掲示板の細かな文字を指でなぞった。
「こういうのがあったら、道を選びやすかったかもしれませんね」
奥さんは亡くなったのだったか、と直人は思った。以前聞いた気がするが、確信が持てなかった。
「そうですね」
今度は直人が答えた。
郡司は案内の下のほうを、もう一度読み直した。
七 静かな車両
制度が始まった朝も、直人は七時四十二分に家を出た。
角を曲がると、灰色の上着が見えた。
男の右手には、たばこがあった。
直人は距離を取った。いつものように風下へ煙が流れた。
男の足が止まった。
胸ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見た。
歩道の反対側から、一人の女性が追い越していった。
男は周囲を見回した。
直人も顔を上げた。
電柱に取り付けられた黒いカメラの横で、小さな緑のランプが光っていた。
男は口を動かした。何を言ったのかは聞こえなかった。
鞄から携帯灰皿を取り出し、たばこを押し込んだ。
持っていたのか、と直人は思った。
毎朝地面へ捨てていたのに、持っていたのか。
男は灰皿をしまって歩き始めた。
直人は、その背中を見て少し笑った。
これだけのことだった。
誰も声を荒らげていない。誰も謝っていない。少なくとも、煙を吸わされた自分が謝る必要はなかった。
*
一週間で、街は変わった。
コンビニエンスストアの前の吸い殻が減った。
スマートフォンを見る人は、通路の中央を避けるようになった。
ホームでは、列の横から近づいてきた人が床の表示を見て、最後尾へ回った。
直人は、そうした小さな動作を目で追った。
以前なら見逃していたかもしれない。だが、いまは一つ見つけるたびに、制度へ投票したわけでもない自分が、報われたように感じた。
水曜日の朝、あの三人組が乗ってきた。
直人は身体を少し固くした。
男の一人が、ドアの前で話し始めた。
「昨日の件だけどさ」
女がすぐに、男の袖を引いた。
「声」
「ああ」
男は車内の天井を見て、声を落とした。
三人は近づいて、小さな声で話した。
駅に着くと、一度ホームへ降りた。降車する人を待ち、乗り直した。
直人は窓に映った自分の顔を見た。
笑ってはいなかった。
だが、胸の奥にあった固いものが、少しずつほどけていた。
次の駅名が、はっきり聞こえた。
それだけのことが、こんなにありがたいとは思わなかった。
*
「かなり楽になりましたね」
昼休み、直人は小野に言った。
「そうですね」
小野は弁当の蓋を外した。
「でも、昨日、千円取られました」
「何をしたんですか」
「イヤホンの音漏れ。自分じゃ気づかなくて」
小野は苦笑いをした。
「電車がうるさいところで音量を上げて、そのままだったみたいです」
直人は箸の袋を折った。
「それで周りに気を配るようになるなら、いいんじゃないですか」
小野の手が、一瞬止まった。
「そうですね」
返事はいつもと同じだった。
それなのに、言ったあとで、直人は少し落ち着かなくなった。
責めるつもりではなかった。制度が間違っていると言われたわけでもない。だが、なぜか制度の側に立って答えていた。
小野は卵焼きを食べた。
直人も弁当に目を落とした。
午後、隣から名前を呼ばれたが、一度では気づかなかった。
小野の声が、いつもより小さかったからだ。
八 二千円の事情
直人の最初の通知は、施行から十二日目に届いた。
《通行妨害 二千円》
改札を抜けたところで、定期入れを鞄へしまっていた。
ポケットの中でスマートフォンが震えたときは、会社からの連絡だと思った。
金額を見て、まず何かの誤りだと思った。
立ち止まったのは数秒だった。
人の流れを意識して、少し横へ寄ったつもりでもあった。
通知には短い映像が添えられていた。
改札から出た自分が立ち止まり、鞄の口を開ける。後ろの女性が進路を変える。その後ろの男も、半歩横へ動く。
画面には、二人の進路変更を示す細い線が描かれていた。
直人は映像をもう一度再生した。
たったこれだけで。
そう思った瞬間、以前の朝が頭に浮かんだ。
改札を出て立ち止まった人。
鞄の中を探す手。
身体をひねりながら横を通った自分。
あの人も、何かをしまっていただけなのだろう。
申し立て画面を開いた。
〈長時間ではありません。定期入れをしまうために——〉
指が止まった。
他人が同じ文章を送っていたら、自分はどう思うだろう。
だったら、邪魔にならない場所でやればいい。
直人は入力した文章を消した。
口座残高を確認した。週末に買おうと思っていたシャツを、来月へ回せば済む。
二千円で済んでよかった。
自分も気づかないうちに迷惑をかけていた。教えてもらえたのだ。
そう考えると、腹立たしさは少し落ち着いた。
小野へ言った言葉を、取り消さなくて済む気もした。
*
それから直人は、改札の手前で鞄を開けておくようになった。
通過したあとも歩き続け、定期入れをしまう。
三日目に、財布を落とした。
背後で音がして振り返ると、小銭が二枚、床を転がっていた。
直人は急いで拾った。
片方は柱の近くまで転がった。屈んだとき、誰かの靴がすぐ横を通った。
その日は通知が来なかった。
会社へ着いてからも、ときどきスマートフォンを確認した。
昼まで何も来なかったので、ようやく安心した。
財布を落としたことよりも、二千円払わずに済んだことが記憶に残った。
*
月末のニュースでは、対象となる迷惑行為の検知件数が、施行前の試験観測と比べて七割減少したと報じられた。
画面の中の駅前は清潔だった。
人々は滑らかにすれ違っていた。
榎本が記者会見に現れた。
「大きな成果が出ています。ただ、皆様からは、対象に含まれていない行為についても、多くのご意見が寄せられています」
記者が質問した。
「具体的には、どのような行為でしょうか」
「これまで個人の受け止め方として見過ごされてきた、小さな不快や不安です。日常生活の質を高めるため、引き続き検討してまいります」
直人はテレビの音を少し小さくした。
上の階は、今夜も静かだった。
制度の対象となる共用部で騒いでいた住人が、一度通知を受けてから、部屋の中でも音を控えるようになったらしい。管理会社からは、騒音に関する相談が減ったというメールが来ていた。
夕食を終え、明日の天気を確認したとき、行政サービスのアプリに赤い印がついているのを見つけた。
《翌月適用分の評価項目が更新されました》
直人は開いた。
著しく遅い歩行、二千円。
周囲に不安を与える急ぎ足、二千円。
一定音量を超える咳、千五百円。
公共空間でのため息、五百円。
直人は画面を上へ戻した。
別の記事を開いたのかと思った。
上部には、見慣れた政府のマークがあった。
窓の外で、電車が通る音がした。
直人は更新日時を見た。
適用開始は、あと二日だった。


